私はなぜ歌うのか? Why Do I Sing?

世界中が混沌とした停滞を迎えているこの期間に、私はとても内省的な時間を過ごすことができました。
一度ここでゼロベースにして、もう一度、深く自分のやっていることについて考えてみよう。
そこで浮かんできたイシューが、以下の3つでした。
 
私はなぜ歌うのか?
なぜ歌うことを必要としたのか?
そして、これからも歌い続けることを想うと、なぜこんなにも喜びと感謝の気持ちを感じるのか?
 
これらを見つめることで、私自身を深く知り、意図的でありながら意図的ではない状態で繰り返される「自分の歌を歌う」という自己表現に一筋の道を見出したい。それが、たとえ私というたった一人の一筋の道だったとしても、人間の身体の中を流れる細い細い毛細血管のように、大きな生命体を息づかせているかけがえのない一筋の流れになり得ることは確かでしょう。
 
そこで、今日は「私はなぜ歌うのか?」について改めて考えはじめてみたときに、自分がこれまで歌ってきた自分の歌にある小さな気づきを得られるのです。歌ってきたのは紛れもなく自分自身の身体であっても、自分の歌とはいえ、作詞し作曲してきた歌がまるで自分だけのものとは当然思いません。
私にとって自分が歌ってきた自分の歌とは、私の心の情景を言葉として、メロディとして、リズムとして、今そこにあるものでどうにか拵(こしら)えてきたものです。だから、そこにあるものはなにも私だけのものではない。ただ少し、私という肉体でいえば個体の生き物が私の心というものを通して、情景という映画を映し出すようにしてできた小曲が一つの歌というかたちになったということです。
 
まさに、作詞作曲するというより、拵(こしら)えるという言葉を選んでいる私がいます。
今ここにあるもので拵(こしら)える歌。
あのとき、あの場所にあったもので拵(こしら)えてきた歌。
それを今日も拵(こしら)え、今日も歌っていく。
 
拵えるの「拵」の字は、手偏に存(あ)ると書きますように、手でそこに生きるようにする、という意味合いに私には感じられます。
そう気づくと、ずっとこれまで私のコンプレックスのようなものであった、何か形のあるもの、触れたり、そこに置いて見ることのできるものを作りたい、といった欲求は、すでに歌という形で叶えられていたものなのだということがわかりました。
もうすでに叶えられることを叶えられていないと思い込んでいることは、まったくもって不幸せなことですよね。
だからこうして、ああ、私は歌を作って歌っているというよりも拵(こしら)えているのだ、と知ったときには、心から救われました。
 
また、刀装とよばれる日本刀の外装である刀身を入れる鞘(さや)、茎(なかご)という刀を握る部分を入れる柄(つか)、および鐔(つば)のことも「拵(こしらえ)」といいます。
私がこの「拵(こしらえ)」から改めてここに書き留めておきたいことは、刀身が一人の刀匠によって作り上げられるのに対して、拵(こしらえ)は漆や金属、染色など様々な素材や工芸技術が用いられて作られるということです。
まさに今ここで語っている私の歌も、刀身のように一人の私によって作り上げられるものではなく、拵(こしらえ)のように、たくさんの人の手や自然によって作られてきた素材や技術が私の手によって用いられ作られてきた、作られているのだということがわかり、繋がっている喜びといただいているものの感謝の気持ちが湧き上がってくるのです。
 
そして、「 拵(こしら)える」は国語辞典にこうあります。   
 
①ものを作ること。「食事をー」
②服装を整えたり、化粧をしたりして身なりを整えること。「顔をー」
③物事をうまく行うために必要なものを事前にそろえること。準備する。「資金をー」
④実際にあったかのように見えるようにする。「話をー」「用事をー」
 
よって、食事を作るように歌を拵(こしら)え、
身なりを整えるように歌を拵(こしら)え、
先行きを明るく準備をするように歌を拵(こしら)え、
まるでそこにあって触れられるように歌を拵(こしら)えること。
 
これは、まさに「生きることだ!」と腑に落ちて、私の脳は感動に叫んでしまいます。
 
 
私はなぜ歌うのか?
 
生きるために。
 
私はここに生きているから。
 
 
今日はここまで考えましたが、次回は、さらに、私はなぜ歌を拵(こしら)えるのか?から、作るのも歌うのも含め、どのような場面でどのように私にとって実用的あるいは作用的であったかを考えてみたいと思います。
とはいえ、問を立てるのは本当に難しい。
安宅和人さんの「イシューからはじめよ」を読んで勉強します。

 
 
それと、これまで拵(こしら)えてきた自分の歌の生まれ処について書いていくことも、課題を進める一歩一歩になるような気がしているので、そうしてみたいと思います。