私たちの声の役割。

あなたもわたしも、
大切な、かけがえのない存在です。
それを、言葉で交わすことはなくても、
声で、笑顔で、態度で交わすことはできる。

みなさんは声についてどのような感覚をお持ちでしょうか。
あまり考えたこともないという方も多いのではないでしょうか。
つい先日、近くのとある公共施設に出かけました。
ときどき利用させていただく施設なのですが、受付カウンターでお仕事をされておられる女性のお顔が大変くらいのです。
お顔がくらければお声もくらく、全体的第一印象がすべてくらい…。
そのときだけであればそれほど気にはならなかったのですが、この間こちらに来たときも、同じように全体的にくらい別の女性が対応してくださったので、つい今日も別のくらい女性がいらっしゃるかしら、と思うようになってしまったのです。
お歳は二十代前半ほどに見える若い方から中年の方まで、一通り出会いました。
こういった光景は、慣れてしまえばそういうもの、と片付けることもできると思いますが、そこにユーモアをどこかしら含んでいるといった可能性があまり感じられない場合は、やはり一期一会で気になってしまうものです。
いったいどうして、そんなにくらいお顔をされて一日こちらにいらっしゃるのか。
もしかして、生活的リハビリとしてこちらの職場を与えられ働いておられるといった事情もあるのかもしれません。
もしかして、職場全体の雰囲気や人間関係じたいがあまりよろしくないのかもしれません。
もしかして、家庭環境に問題があるのかもしれません。
失恋したばかり? 上司に怒られたばかり? 仕事で大きな失敗をしてしまったばかり?
余計な推論は挙げればきりがないほど見つかります。
わたしがお伝えしたいのはなにもクレームではありません。
ただただ心配をする気持ちなのです。
それは余計なお世話、と言われてしまうかもしれません。
でも、傘もささずに髪の毛を濡らしながらとぼとぼと道を歩いている女性に、あら、大変!こんなに濡れちゃって!と反射的に傘を差し出したいような、そういう気持ちなのです。
実際に同じようなことが数年前にありました。
玄関前を高校生くらいの女の子が雨に濡れながら急ぐでもなく歩いてきました。
わたしはとっさに自分のさしていたビニール傘を彼女の頭の上へ持っていき、よかったらさして帰ってください、ビニール傘だし、返さなくてもいいですから、と彼女に言いました。
彼女はとても驚いた様子で、数秒ほど状況を理解するのに時間をかけているようでした。
自分の置かれた状況とわたしからの声がけに意味を解した彼女は、大丈夫です、ありがとうございます、と言って表情を緩め、着ていたパーカーのフードを被って坂道を小走りに下っていきました。
わたしは小さな背中を丸めながら走る彼女を見送りながら、フードを被り少し笑って恥ずかしそうに去っていく彼女に感謝をし、お互いに息を吹き返したのを感じました。
彼女はわたしのとっさの行動を受け入れてくれました。
そして、自分は人から心配される状況であったのだということを受けとめてくれました。
もしかしたら、わたしが彼女にしたことは大げさだと捉えられても仕方がなかったのに。
時代が違うから、世代が違うから、個人情報がどうだとか、人は人だから、知らない者同士だからとか、つい私たちは臆病になる。
でも、わたしはこの日の夕方、思いがけない彼女との気持ちの交流に、心からの幸せを感じたのです。
まだわたしの中から、新鮮でかけがえのない衝動が必要なときになんの迷いなく、言葉となって、行動となって現れてきてくれることに。
彼女の中から、他者からの見える自分自身の状況を感じとり、嬉しさや恥ずかしさをフードを被ることで、小走りに走り去ることで、わたしに表現して見せてくれる優しさが溢れたように。

私たちはみんな、お互いを必要としている。
お互いの笑顔を、
あなたがそこにいるよ、わたしはここにいるよ、という
お互いの声を、態度を、
必要としているのです。